《トゥーランドット》というタイトルのオペラです。
当然、主役はトゥーランドット姫。
……のはずなのですが。
実際に舞台を見ていると、いつの間にか別の女性を追いかけていることがあります。
奴隷のリューです。
亡国の王ティムールに付き従い、ひそかにカラフを想っている女性。
トゥーランドットのような強さはありません。
謎を出すこともない。
国を動かす力もない。
それでもリューが歌い始めると、物語の空気が変わります。
そして第3幕。
彼女がいなくなったあとでさえ、その存在は舞台に残り続けます。
どうして私たちは、タイトルロールではないリューにこれほど感情を持っていかれるのでしょう。
トゥーランドットは、最初から遠い
トゥーランドット姫は、とにかく遠い女性です。
皇帝の娘であり、絶世の美女。
求婚者には三つの謎を出し、答えられなければ処刑する。
そもそも普通の人間関係の距離ではありません。
カラフは一目見ただけで、「この人だ」となってしまいますが、観客まで同じ速度でついていけるとは限らない。
むしろ、「いや、待って」となる人もいるでしょう。
美しい。
圧倒的。
怖い。
でも、まだ彼女の内側は見えません。
第2幕で《この宮殿の中で》を歌い、祖先ロウリン姫の悲劇を語る。
ここで、ようやくトゥーランドットが男性を拒絶する理由が見えてきます。
それでも彼女は、どこか遠い。
巨大な宮殿の奥にいる女性です。
リューは、最初からこちら側にいる
一方のリューは、とても人間的です。
彼女には国を動かす力もありません。
カラフに想いを告げることさえできない。
それでも、盲目となったティムールを支えながら、長い逃亡生活をともにしてきました。
なぜそこまで尽くすのか。
第1幕でカラフに問われたリューは、その理由を語ります。
かつて宮殿で、カラフが自分に微笑んでくれたから。
たったそれだけ。
カラフからすれば、何気ない出来事だったのかもしれません。
けれどリューにとっては、その小さな記憶がずっと残っていた。
トゥーランドットへのカラフの恋が、雷に打たれたような一目惚れなら。
リューの想いは、長い時間をかけて静かに残った灯のようです。
《お聞きください、王子様》で初めて感情がこぼれる
カラフが謎解きに挑もうとすると、周囲は必死で止めます。
父ティムールも止める。
ピン、パン、ポンも止める。
群衆まで止める。
それでもカラフは聞きません。
そこでリューが歌うのが、《お聞き下さい、王子様(Signore, ascolta!)》です。
彼女が訴えるのは、大きな理想ではありません。
あなたが死んでしまったら、残された私たちはどうすればいいのか。
どうか行かないで。
それだけです。
ここで、それまで大勢の声が飛び交っていた舞台から、急に一人の女性の感情が浮かび上がります。
リューはカラフを説得するために、正論を並べません。
ただ悲しい。
ただ怖い。
だから行ってほしくない。
その感情をプッチーニは、非常に素直な旋律で歌わせます。
観客がリューを見るというより、リューの気持ちがこちらへ届いてくる。
この違いは大きいのかもしれません。
それでもカラフは行ってしまう
ところが、カラフは止まりません。
リューの気持ちに気づいていないわけではないでしょう。
彼はリューに、父を頼むと託します。
そして歌うのが《泣くな、リュー(Non piangere, Liù)》。
やさしい音楽です。
だからこそ、少し残酷でもあります。
カラフが見ているのは、もうトゥーランドット。
リューがどれほど彼を想っていても、その視線はこちらへ戻ってきません。
リューは拒絶されたわけではない。
そもそも恋の相手として、同じ場所に立っていないのです。
このすれ違いを、観客だけが知っています。
カラフはトゥーランドットを見る。
リューはカラフを見る。
そして観客は、その二人を見ている。
だからリューの届かない想いまで、こちらには見えてしまいます。
第3幕で立場が逆転する
第3幕。
カラフの名前を突き止めるため、北京中が動きます。
「誰も寝てはならぬ」。
カラフにとっては、自分の勝利を確信する夜です。
しかし同じ夜。
リューにとっては、まったく違う時間が始まります。
カラフの名前を知っていると疑われ、ティムールとともに捕らえられる。
拷問されても、名前を明かさない。
ここでリューは、それまでの「物語を動かす力を持たない側」から変わります。
権力もない。
武器もない。
逃げることもできない。
それでも、自分が何をするかだけは自分で決める。
物語の中でもっとも弱い立場にいた女性が、突然、誰にも動かせない人物になります。
トゥーランドットに「愛」を教えるのがリュー
トゥーランドットは不思議に思います。
なぜ、この女はそこまで耐えられるのか。
そこでリューが答える。
愛が、自分にその力を与えている。
そして《氷のような姫君の心も(Tu che di gel sei cinta)》へ。
このアリアが痛いのは、リューが自分の恋が叶うとは思っていないことです。
彼女が語るのは、自分がカラフと結ばれる未来ではありません。
いつかトゥーランドットも、カラフを愛するようになる。
その未来です。
つまりリューは、自分ではない女性とカラフが結ばれる未来を見ながら、それでも彼を守る。
ここまで来ると、観客がリューから目を離せなくなるのも無理はありません。
そして、リューは自分で物語から降りる
リューは最後まで名前を明かしません。
そして自ら命を絶ちます。
ここで舞台の空気が大きく変わります。
ティムールが嘆く。
群衆も静まる。
リューの亡骸は運ばれていく。
物語上では、彼女の役目はここで終わります。
ところが観客の感情は、そう簡単には切り替わりません。
ついさっきまで、一人の女性の死を見ていた。
その直後から物語は、カラフとトゥーランドットの愛へ向かわなければならない。
ここに《トゥーランドット》という作品の難しさがあります。
タイトルロールより、リューのほうが近くにいる
トゥーランドットは、作品の中心にいます。
巨大な宮殿。
三つの謎。
処刑される求婚者たち。
祖先から引き継いだ恐怖。
すべてが大きい。
それに対してリューが持っているものは、とても小さい。
昔もらった微笑み。
盲目の老人を支える手。
届かない恋。
そして、好きな人を守りたいという気持ち。
だからなのかもしれません。
トゥーランドットを私たちは見る。
けれどリューには、いつの間にか寄り添っている。
そしてリューが舞台を去ってほどなく、プッチーニ自身の筆も止まります。
偶然とはいえ、それもまた《トゥーランドット》という作品を不思議なものにしています。
タイトルに名前を残したのは、トゥーランドット。
けれど最後まで観客の心に残る女性が誰なのか。
それは、舞台を見た人それぞれで違うのかもしれません。